大阪地方裁判所 昭和50年(ワ)4913号 判決 1978年9月28日
原告
尾崎稔
外一名
右原告両名訴訟代理人
中垣一二三
外一名
被告
光永一美
外一名
右被告両名訴訟代理人
北島考儀
被告
大阪府
右代表者知事
黒田了一
右訴訟代理人
道工隆三
外二名
右指定代理人
岡本冨美男
外二名
主文
一 被告光永一美は原告らに対し各金九七八万四六八九円及び内金九一八万四六八九円に対する昭和五〇年三月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らの被告光永一美に対するその余の請求及び被告高野その、同大阪府に対する請求を棄却する。
三 訴訟費用は、原告らと被告光永一美との間においては原告らに生じた費用の三分の一を被告光永一美の負担とし、その余は各自の負担とし、原告らと被告高野その、同大阪府との間においてはすべて原告らの負担とする。
四 この判決は原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
事実《省略》
理由
一<証拠>によれば次の事実が認められる。
原告らは昭和四四年三月に結婚した夫婦であり、尾崎歩(昭和四七年七月九日生)はその間に生まれた一人息子である。
<中略>
二事故の発生
歩は、昭和五〇年三月二二日午前一一時三〇分頃、祖母の尾崎ヒデに連れられて大阪市西成区天下茶屋三丁目一二番三号付近の横断歩道を通行中、黒田石男が連れて歩いていた本件土佐犬に突然咬みつかれその場に倒されて引きずり廻され、顔面、頸部咬傷、下顎骨複雑骨折、頭部裂傷等の傷害を負わされた結果、そのころ同所において流下血液吸引により窒息死したものである。以上の事実は当事者間に争いがない。
三被告光永、同高野の土佐犬の飼育状況
<証拠>によれば次の事実が認定できる。
被告光永と同高野は、昭和四年頃から大阪市西成区天下茶屋二丁目一八番三二号の被告高野方で同棲をはじめ、以後同所で内縁の夫婦同様の生活を営んできた。被告光永は、毎日人夫を数人集めてきてはそれらを連れてあちこちの工事現場へ出かけて行き、土工の仕事をして生計をたてており、被告高野方には月のうち半分位帰つてきて生活を送つていた。その間被告光永は、昭和四五年頃から被告高野方で闘犬用の土佐犬を飼いはじめ、やがてその数は一〇匹位になつた。本件土佐犬も被告光永が飼育していたうちの一匹である。これらの土佐犬はすべて同被告が好きで勝手に飼い初めたものであり、同被告の所有する飼い犬であつて、飼い犬登録や狂犬病の予防注射を行なうのはもちろん、犬舎等飼育設備を整えたり、えさを買つてきて犬に与え、犬を洗い、散歩に連れて行き、闘犬として訓練し、闘犬大会に出場させあるいは交配させる等全般的な犬の飼育、管理はすべて同被告が行ない、ただ散歩させたりえさを与える等一部の世話は同被告の指示により同被告の息子が行なうこともあつた。他方、被告高野は、土佐犬が嫌いではあつたが、被告光永が飼うのでやむを得ずこれを黙認し、犬舎の掃除をしたり、同被告が仕事の都合で留守の時には米を炊き犬に食事を与えたりしていたものの、それ以上に土佐犬の飼育、管理に関与することはなかつた。そして、本件土佐犬の飼育状況も右と同様であつて、例外ではなかつたのである。<証拠>中右認定に反する部分は措信できず、その他右認定を覆するに足る証拠はない。(被告光永が本件土佐犬の飼育、占有者であつた点は原告らと被告光永、同高野との間に争いがない。)
右の事実からすれば、本件土佐犬の占有者は、被告光永のみであり、被告高野は、被告光永との身分関係にもかかわらず本件土佐犬の飼育占有に関しては被告光永の占有補助者にすぎなかつたものと認めるのが相当であり、被告高野が本件土佐犬の共同占有者であつたことを前提とする原告らの同被告に対する請求は、その余の点について判断するまでもなく失当である。
四抗弁について
1 <証拠>によれば次の事実が認められる。
(一) 土佐犬の飼育設備、飼育方法
被告光永は本件事故当時、被告高野方前から西隣家前にかけての路上に犬小屋を四個ないし一〇個位置き、その中及び同被告方一階の事務所内に土佐犬を八匹位飼つていたが、右犬小屋は幅員約4.7メートルの道路上に一メートル位はみ出して置かれていた。そして本件土佐犬は同被告方前に置かれた犬小屋のうち一番東端のものに入れられていたのである。これらの犬小屋の扉には止金がついていて、それを差込んでおけば犬が自力で外へ出られないようになつていたが、施錠設備はなく、従つて誰でも扉をあけて犬を連れ出すことが可能な状態であつた。又土佐犬を散歩させる時には、被告光永が単身綱をつけて引いて歩いたが、おとなしい犬の場合は同被告の息子が散歩させることもあつた。そして時には、土佐犬を闘犬として訓練するため、道路上で重いコンクリート塊を引かせて歩くようなこともあつた。しかし、散歩や訓練の際土佐犬に口輪をはめるということはなく、そのため従前から別紙一覧表記載のように散歩の途中土佐犬が他の犬や人間に襲いかかつて咬傷を与える事故が度々起こつていたのである。
(二) 被告光永と黒田石男との関係及び同人が本件事故を惹起するまでの経緯
被告光永は本件当時、丸井組の屋号で、人夫を数名集めてはそれらを連れてあちこちの工事現場へ出かけて行き土工等の仕事をするのを業としていた。黒田石男は、昭和五〇年三月一一日から同被告の下で働き初め、毎日早朝に数名の人夫と共に西成区愛隣地区内の高山古物店前に集合し、そこから同被告の指示で岸和田や堺方面の工事現場へ出かけて行き、鳶や土工の仕事をして一日働いた後再び集合場所付近まで帰つてきて解散するという稼働状況であつたが、給料は原則的には稼働日数に応じて一部は当日、残りは月末にまとめて支払われるようになつていた。黒田は同月一一日以後本件事故当日までの間、一二日、一九日、二〇日、二一日と同被告の下で働いたが、その間の同月二〇日仕事から帰る途中同被告から土佐犬の世話を手伝つて欲しいという話をもちかけられた。更に黒田は本件事故の前日である二一日には、仕事を終えた後同被告に連れられて被告高野方を訪れ、被告光永の指示で同被告と共に本件土佐犬を二〇分ほど散歩させ途中同被告と替つて一人で同犬の綱を引つ張つたりした後、被告高野方で酒を振るまわれたが、その際被告光永から「アカ」という土佐犬の世話を頼まれてこれを承諾し、又翌々日の二三日には和歌山で闘犬大会があり本件土佐犬がそれに出場するという話を聞かされて、黒田もその大会について行くことになつた。
翌二二日黒田は早朝六時ごろから被告高野方へ赴いて、家人に無断で土佐犬「アカ」を連れ出し、三〇分ほど散歩をさせた後、更に被告光永の指示で「横綱」という土佐犬の散歩もさせてやつた。それから同被告と共に仕事に出かける予定になつていたが、手違いから同被告が先に出発したため、黒田は一人残されてしまつた。そこで黒田はその日は仕事へ行くのをあきらめて、日本酒を二合ほど飲むなどしていたが、そのうちに、前日同被告と共に散歩させた本件土佐犬が翌日闘犬大会に出場するのでこれを散歩に連れて行つてやることを思い立ち被告高野方へ赴いたところ、家人か留守であつたため勝手に同被告方へ入つて追い綱を取り、表路上に出ている犬小屋の扉をあけて本件土佐犬に綱をつけ散歩に連れ出した。
しかし、本件土佐犬は、被告光永が飼育していた他の土佐犬に比べて体格も大きく力も強い闘犬である上、翌日闘犬大会に出場するため特別に訓練を受けて興奮しやすい状態にあつたことに加えて、黒田は本件土佐犬を引いて歩くのが前日に次いで二回目で不慣れだつたし二合ほど飲酒もしていたにもかかわらず、犬に口輪もせず昼間人通りの多い路上を散歩させていて、追い綱をゆるませた状態のまま交差点を小走りに渡ろうとしたため、本件土佐犬が尾崎歩に襲いかかつた時突差に追い綱を引いて制止することができず本件事故に到つたのであり、従つて、本件事故は黒田の過失により発生した事故である。
2 右認定事実からすれば、本件土佐犬はかなり体格が大きく力も強い闘犬である上、本件事故当時は翌日に闘犬大会を控えて興奮し易い状態にあつたし、被告光永は、以前にも度々飼育する土佐犬が人や犬に対する咬傷事故を起し後述のとおり保健所等から注意を受けていたのであるから、本件土佐犬を含む土佐犬の飼育保管についてはみだりに保管から逸脱しないよう格段の注意を払う必要があつたし、運動に連れ歩くにあたつては口輪をはめ通行の日時、場所、牽引方法等にも注意を払い、もしそれを他人にまかす場合にはそれらの点について細かく注意を与える必要があつたのに同被告は、犬小屋を路上に出し差込錠をしただけで誰でも容易に犬を連れ出すことが可能な状態に置いていた上、黒田には本件土佐犬の散歩こそ頼まなかつたかも知れないけれども過去に飼育土佐犬の散歩を頼み或いはその無断連れ出しを黙認したことがあり黒田が本件土佐犬を連れ出すことも全く予期し得ないことではなく、しかも黒田には土佐犬を運動に連れ出すにあたつての何らの注意も与えていなかつたことが明らかである。
従つて被告光永が本件土佐犬を犬の種類、性質に従い相当の注意をもつて飼育、占有していたとは認められないし、本件事故が同被告にとつて予見不可能な事故であつたともとうてい考えられない。
よつて抗弁は理由がなく、同被告は本件事故により原告らが蒙つた損害を賠償する責任がある。
五被告大阪府の責任
1 被告光永が飼つていた土佐犬の飼育設備、飼育方法及び本件以前に発生した土佐犬の咬傷事故については、前記四―(一)に認定したとおりである。又<証拠>によれば、前記のような咬傷事故が度々発生し、付近住民は多大の迷惑を蒙ると共に同様の事故が続発する危険を感じていたので、事故の被害者あるいは町内の役員をしている住民から、本件事故以前に何度か西成警察署あるいは同署天下茶屋派出所に対し、被告光永の土佐犬により他人の犬や身体に危害が及ぶことのないよう同被告に対し何らかの処置をとつてもらいたい旨の申し入れがなされていた事実が認められる。(例えば、昭和四七年九月一日、松岡精一から同署防犯課長に対し、昭和四九年二月一四日伊東与一他数名から同署防犯係長に対し、同年八日伊東与一数名から同署防犯課長に対し右のような申し入れがあつた。)
2 原告らは、警察官としては、右のような状況に濫み土佐犬による咬傷事故を未然に防止するため被告光永に対し警察権を行使して適当な処置をとるべき義務があつたにもかかわらず、これを怠つたために本件事故が発生したのであり、従つて被告大阪府には本件事故による損害を賠償する責任がある旨主張する。そこで、警察官に果たして右のような処置をとるべき作為義務があつたか否かについて検討する。
(一) 警察官に右のような作為義務があるとするためには、まずその前提として警察官に警察権を発動して何らかの処置をとりうる権限がなければならないが、飼い犬の管理に関する条例(昭和四五年大阪府条例第五号)六条ないし九条、同条例施行規則(昭和四六年大阪府規則第七号)一五条、大阪市保健所規則(昭和三一年大阪市規則第五四号)一一条四三号ないし四七号によれば、大阪市の場合、飼い犬の飼育及び管理について措置命令を発する権限を持つた所轄行政機関は大阪市長の権限委任を受けた大阪市の保健所長と定められており、警察官に飼い犬の飼育、管理に関して何らかの措置をとる権限を与えた法令や条例は存しない。そして<証拠>によれば、前記附近住民からの申し入れを受けた西成警察署では、その都度所管の西成保健所長への申告を教示し或いは直接西成健健所に通報し、申告もしくは通報を受けた西成保健所では、その都度調査、注意、誓約書徴収、措置命令等の措置をとつていたことが認められる。
(二) 原告らは、本件につき警察宮が被告光永に対し何らかの警察権を発動し得る根拠として刑訴法一八九条二項、警察法二条一項、警察官職務執行法四条一項、道路交通法七六条三項を挙げる。
しかし、まず刑訴法一八九条二項についてみると、本件以前に被告光永の土佐犬によつて惹起せられた別紙一覧表記載の咬傷事故のうち、同被告の不注意によつて、土佐犬が他人の犬に咬みついた事故は犯罪にはならないから捜査の端緒となり得ないし、人身事故については、いずれも通院加療一週間ないし一〇日間程度の傷害を負わせたに止まる事故であり、前記乙第一号証及び証人安藤栄治の証言によれば告訴もなかつたというのであり、また前記のとおり所轄保健所から注意、誓約書徴収、措置命令等の措置がなされていたというのであるから、警察が敢えて立件し捜査を行なわなかつたとしても、それを目して警察官の作為義務違反とみることはできない。
次に、警察法二条一項は警察の責務について一般的、抽象的に規定したものであり、この規定のみでは未だ具体的な個々の場合について警察権限を行使しうる根拠となるものではない。又警察官職務執行法四条一項は、人の生命、身体、財産に対する危険な事態が現実に発生しているかもしくは目前に切迫している場合にとりうる緊急措置について定められたものであるが、本件の場合は、以前から土佐犬の咬傷事故が続発する可能性は予想されたものの、住民の生命、身体等に対し危険が切迫した状況であつたといえないから、右規定を根拠として警察が被告光永に対し何らかの措置を取ることができたとすることもできない。
更に、道路交通法七六条三項についていえば、本件の場合、被告光永の犬小屋が被告高野方前の幅員約4.7メートルの道路上に一メートル位はみ出して置かれていた事実は認められるが証人安藤栄治の証言によれば、右道路は認定道路ではなく私道であり、警察としては昭和四九年八月頃附近住民から迷惑についての相談があつた際被告光永に対し警告と指導をしたというのであるから、警察官がそれ以上の措置をとらなかつたとしても、これを不作為義務違反ということはできない。
3 以上によれば、本件の場合警察官が、被告光永の土佐犬による咬傷事故の危険を防止するためにとるべき措置をとらなかつた不作為義務違反があるということはできない。よつて、その余の点について判断するまでもなく、原告らの被告大阪府に対する請求は失当である。
六損害<以下、省略>
(露木靖郎 市川頼明 山垣清正)